奈良美智展: 君や僕にちょっと似ている @ 横浜美術館 (2012)

実は奈良さん単独での展覧会を見たのは初めてなのですね。いつも奈良さんの『パップキング』や失恋した若かりし頃の奈良さんの描かれたTシャツを着て、「それはアナタの似顔絵ですか?」などと言われて「えへへっ」などと得意げにしていますけど。

今回の奈良さんの作品、吹っ切れた印象があった。絵画の歴史の中に否応なく位置してしまう自分の作品と折り合いをつけ、更に楽しげに作品と向かい合っているのではないかな、と思った。今回のブロンズ彫刻は船越圭の静謐な彫刻群と共通する空気感があるな、と思っていたら、美術手帖荒木経惟が対談冒頭で名前を出していた。やはり、おんなじようなことを感じる人はいるんだなー。

そして愛らしいタイトル達。

展示のほとんどが、この展覧会のために制作された作品。
絵画の持つ空間。彫刻の持つ空間。
人の手で造形されたことが明らかなブロンズ像。
大型のカンヴァスにアクリルで描かれた作品では、明らかに筆を塗り重ねたアトが見える。
輪郭が明らかになったり、モワモワと滲んで行ったり。
その絵画の奥行きの中に取り込まれ、フワフワと至福の時をすごす。

私自身が奈良さんの作品に最初に出会ったのは横浜トリエンナーレ2005の奈良美智+grafの展示。
その絵を見るまでは、知っていたけれど『スーパーフラット』の一連の文脈に連なるものだと認識していた。つまり、平面的で2次元的な絵画と消費文化の空虚さ。絵画というよりは、イラストに近いのだと思っていた。
むかーしホックニーの展覧会で浮世絵の遠近法を西洋絵画と比較して考察したビデオがあって、とても興味深かった。

私自身は写真を扱っていたこともあり、2次元と遠近法いうことに少なからず関心を持っていたので、もちろん『スーパーフラット』には関心があったし、奈良さんの作品もに気になっていた。とはいえ、『スーパーフラット』はカタログでしか見ていない、いい加減なオーディエンスなんだけど(・.・;)
トリエンナーレの展示は、アート部屋になっていて、それを見ながら、この人の作品は時間を貫いての作家の分身なんだろうなぁ、と思った。
実際の作品と対峙した時、作品の訴える力が思いの外強く、奈良ワールドに引きこまれ、それまで全く深く知ろうとしなかったのに、急に気になって気になって仕方がなくなった。はて、この一連の作品群は一体なんだろう?と。まぁ、多分、惚れたんだろうと思うわけですよ。
その後、青森美術館へ行く機会があり、偶然出会ったあおもり犬も、最初はなんだろう???と思いながら、最終的にはナツいた。
その頃には、「間違いなく美術の文脈の中から生まれた作品なんだよな、これ」と思うようになる。

かつて、芸術が社会のごく一部のパトロンの後ろ盾の下に制作されたものだった。ルネサンスを経て作家も作品も自立した存在となり、市場が成立し、そして現代、その作品を支えるのは我々匿名のファン、作品史上と、そして大量生産されるグッズなんだろうなぁ。だから、ファンはミュージアムショップで安価なカタログやら、キーホルダーやらチロルチョコやらに印刷された作品を持って家に帰るんだよね。(最近、勉強していないので、なんの検証もない荒っぽい論理だなー。後で恥ずかしいっと思うために書いておこうっと)

そうしたら、今回の展覧会のカタログで奈良さんが、こう書いていた。うんうん、と頷きながら読んだ。
『2012年の現在、レゾネ制作や震災、オーディエンス層の拡大、過大な、あるいは順当な、あるいは不当な評価、数々の展覧会での経験、自身の加齢…いろいろな理由から、僕は作品を自分の元から旅立たせること(作品自体としての自立)を現実的に考えられるようになったようだ。
もはや好むと好まざるとにかかわらず、自分が作るものは、僕自身の自画像ではなく、鑑賞家本人や誰かの子どもや友達だと感じるオーディエンスのものであり、欲を言えば美術の歴史の中に残っていくものになっていくと思っている。自分の肉体が滅んでも、人類が存在する限りは残っていくものということだ。』

創作に取り組んだ事のある人たちの行き当たる問題として作品と自分との分裂があるよね?多分。作品が自分の手を離れてモノになった途端、それは独り歩きを始める。「私」の思ったとおりには人は解釈してくれない。批評、批判、そして賞賛は作品についてであり、作者の人格に向けられたものではない。私の拙い制作活動と比べるのはおこがましいが、少なくとも数多くのミュージシャンやアーチストは、それに耐えられなくてドラッグやアルコール、忘れることができそうな事に逃げて壊れていってしまった。

多分、奈良さんは、そんなことは吹っ切ってしまい、これからも元気に作り続けるに違いない。
だから、また、カックイイ新作に沢山会える。楽しみにしている。