『フィランソロピーの橋ーこころ豊かな社会を築くために』(林雄二郎/加藤秀俊 編著)[TBSブリタニカ刊]

今更、フィランソロピーについて学習中。
フォーラム・エンブリッジという林雄二郎氏を中心とする自発的な研究会の成果物。
それぞれの論文が、それぞれの主張のダイジェストになっていてわかりやすい。
多分、それぞれの報告を文書にまとめたものと思うので、十全なものばかりではないだろうと推測しますが。
その中の「日本のフィランソロピーについて/林雄二郎」から引用。

ヒルシュマイヤー博士(南山大学元学長)の名著『日本における企業者精神(entrepreneurship)の生成』(東洋経済信奉者、一九六五年刊)によると、明治の財閥は、江戸時代のいわゆる豪商といわれた人たちの流れをくんだ人もないではなかったが、それよりもむしろ、かつては富と無縁であった下級武士のなかから出た人たちによって形成されていった。その主たる理由は、侍階級、並びに商人階級の人たちのそれぞれの青少年時代の教育基盤の違いによるものであったと、博士は指摘しておられる。
 具体的に言うと、商人達の学校である寺子屋における教育というものが、主として「読み書きそろばん」という、いわゆる形而下の実学であったのに対し、武士階級の子弟が行く学校は、各藩の藩校といわれるところであって、教育は主として形而上の倫理学、哲学などの学問であった。このような学問的素養の違いが、明治以降になって欧米先進国から流入してくる新しい思想、新しい学問を吸収するうえで非常な違いを発揮したというわけである。
 武士階級の人たちは商人階級の人たちに比べて、そういう新しい思想や新しい学問の吸収がより容易であった。そういうことが、富とは必ずしも縁のなかったはずの武士階級の出身者が逆に新しい財閥形式に成功して、その後の日本をつくっていくうえで大きな影響力を果たした。ヒリュシュマイヤー博士は、そう指摘しておられる。それは違うと否定する人もいるかもしれないが、私は確かに一面の真理ではないかと思う。

明治のころの起業者たちが何よりも国のために尽くす事を第一義に置いたであろうことは、現代の私たちにも容易に推察できる。彼らの若い時の教育的な基盤が形而上学をベースにしたものであったということは先に述べたが、より具体的に言うならば、その形而上学というのはいわゆる治国平天下の学問、すなわち政治権力者の持つべき基本理念とでもいったらいいような学問である。それが経済権力をも手中にしたとしても、その思想的基盤が変わるはずはないであろう。そして、それが明治の新しい政府のもとですべての日本人に共通なものとなるよう教育うのベースに組み込まれて行った事は、当然であったろう。社会イコール国家。国家以外のことをイメージする社会概念は反国家的な思想に通じる危険なしそうであると言う、今から考えればいささかひずんだ考え方が次第に定着して行った。かくして交易とか公とかいう言葉の意味するところもまた、その延長線上に位置することになったとしても、あながち不思議な事ではなかっただろう。

一〇〇〇年以上も昔の古典である『日本書紀』では、恩という字を「めぐみ」とか「いつくしみ」と読ませており、意味としては非常に広いものを持っていた。天の恵み、自然の恵み、といった考え方がきわめて普通の考え方であったようである。つまり現在、「報恩」というと、すぐに親の恩・師の恩・主君の恩であるというように非常に限定されてしまい、狭い観念に閉じ込めてしまう。それはその後の儒教等に寄る影響であって、本来はもっと伸びやかな広々とした方オンしそうというものが日本人の価値観として古くからあったのではないか--と思うのである。

さきに私は明治以前の日本社会を支えてきた柱の一つとして、きわめて賢明な庶民大衆の存在を指摘した。現代に伝えられる日本の伝統文化は、実はこれら政治権力も経済権力ももたない江戸時代の庶民達によって、はぐくまれ受け継がれてきたものであった。時の政府はしばしば風俗壊乱のかどで弾圧することはあっても、決して彼らに手厚い保護は加えなかったようである。にもかかわらず、それを守り、育て、受け継いできたのは名も亡き庶民大衆であった。そして明治以降もまた、特に第一次大戦以後の一時期、国益とは違う公益とは何かということを真剣に模索した人たちがいたらしい。大正デモクラシーといわれる流れが当時の社会のなかの一つの流れになろうとしていたが、この流れは決して時の政治権力や経済権力の影響を受けて発生してきたものではなく、むしろ庶民大衆の新しい意識の興隆によるものであったと私は見ている。

さて、ここで新憲法の第八九条に少し触れたい。八九条にいわく「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、または公の支配に属しない事前、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」--これは要するに、国の金を社会セクターの活動に対して出してはいけないということである。私たちは社会セクターという言葉を使っているが、ベル先生はインデペンデント・セクターと言っている。
(略)
よく世間では、国は金を出しても口は出すな、それを理想にすべきだなどと言う人が居る。私に言わせれば、これはとんでもないこと。金は出しても口を出さないということは憲法違反であって、金を出したら口を出すのは当たり前である。五〇年も前に新憲法が、インデペンデント・セクターとはこういうことであるとうたっていることはまことに興味ぶかい。

フィランソロピーの橋―こころ豊かな社会を築くために

フィランソロピーの橋―こころ豊かな社会を築くために


金を出したら口を出すのは当たり前。でも、このことをわかっていない人が多すぎる。