映画 大駱駝艦『裸の夏』

トークショーのお知らせばかり書いていて、自分の感想をまだ書いていません。
ドキュメンタリー映画 大駱駝艦『裸の夏』
2月3日日曜日の雪の中、観に行って参りました。
この日のイベントは麿赤兒さんと大駱駝艦の面々の舞台挨拶。
イメージフォーラムへ行くのは初めてで、スターバックスの角で「どこだんべぇ?」とチラシとにらめっこしていると、眼の隅にちらちらと見たことのある人影がチラチラと…。御大将他が外に立っていらっしゃいました。

毎年、白馬で行われている(最初は伊豆だったらしい)参加者を一般から募っての合宿の様子を追ったドキュメンタリー。
土方巽の舞踏や麿さんの初期の踊り、大駱駝艦の代表作、『河のホトリ』や『海印の馬』も観ることが出来る。『河のホトリ』の衣裳は素晴らしかったなぁ。『海印の馬』はやっぱりよいなぁ。等等。

ちょっと引きこもり気味の彼、クラブでかっこよく見せたい彼女、たった1週間の合宿で、参加者の心も身体も変わって行く様子、大駱駝艦の生き方、作り方、考え方が一体に語られています。麿さんが黒板に「間ー魔ー神」と書いて、舞踏は世界との間に身を任せること、段々とその間が大きくなって、「ヒト」の存在が小さくなって来る、それを具現化していくことなのだ。と。
食事から衣裳まで、総てを自分たちでやることになります。裸につける下着(「男性はドアノブ状のもの」だそうです)も自分たちでつくるんですね。

「身体がありゃぁ、いいんだよ」
「金粉を塗れば、みんな仏様」

合宿の最後に麿赤兒さんが皆に語ったのは「死のうと思う時には太陽を見て、生きようと思う時は便所を見て」。

普通の人でも1週間で、あれだけの動きが出来るようになるのだと驚きました。
大駱駝艦の行っていることは、『天賦典式(この世に生まれ入ったことこそ、大いなる才能とする。)であり、日常の中から失われた身振り、手振りを掘り起こし、採集・構築することなんですね。みんなが才能を持っていて、そして日常の中から掘り起こされた身振り、手振りなんですね。

素晴らしいドキュメンタリー映画。きっと私のような大駱駝艦ファンでなくても楽しめると思います。
舞踏とはこういうことなのかとわかってきます。
わかれば見方もかわります。人は知らないものは、なかなか認識できないのです。
9日からの渋谷のイメージフォーラムでのレイトショーも決まり、地方も京都、大阪、名古屋と公開されます。

知人Hさんから、立松和平さんと麿さんとの対談の回の感想文を送ってもらい、勿体ないので、ご了解をいただきここに掲載してしまいます。

さて、裸の夏ですが、本当に見て良かったと思っています。
大駱駝艦の舞踏は私にはよく意味が分からず、だけどまた見たくなるというものでした。
トークショーで立松和平氏も、「天ぷら集団(メリケン粉で真っ白に塗っているから)」、「田植えダンス(腰を屈めて踊っているから)」とおっしゃっており、私も実はそのようなイメージで大駱駝艦を見ておりました。が、映画の前半の舞踏についての説明で、日常の動きの中の未認知なもの、間を現す(使う)ものと麿氏がおっしゃっているのを聞いて、なるほどと感じたと同時に、とてつもないところに目をつけた舞踏なのだなと思いました。
今後、この舞踏の見る目が少し変わる気がします。
それにしても、大駱駝艦に参加されている人々は普通の方々なのですね。裸になったり、摩訶不思議な動きをしてたりなので、私とは全く違う、ちょっと変わった人たちの集まりなのかと思っていましたが、まったく違う。映画を観ているうちに、裸に抵抗がないわけではない。眉を剃られることに違和感を感じる人も居て、あの舞踏の疎きを気持ち悪いという人もいました。私たちとさほど変わらぬ感情と価値観をもた人たちがいたことに驚き、とても親近感がわきました。そう言う人たちの身体と使った表現と思えたことも、っ今度、大駱駝艦の舞踏を見る目がまた変わる気がしました。
この映画は、私にとって、今後、大駱駝艦の舞踏をより見てみたいと思えるきっかけとなる映画でした。この映画を見た後だからこそ、また麿氏をはじめ、大駱駝艦の舞踏を見てみたいと思います。今までは「なぜか見たい」というレベルでしたが、今度は舞踏から何かを感じられたらとてもおもしろいと思っています。